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10代 故 山口尚則 ・11代 山口哲生(家宝天秤棒授受の儀)

地に根ざし、志を継ぐ

山口酒造場の歴代当主

  • 初代
    山口與右衛門(-1733)やまぐちよえもん

    江戸元禄年間に出生し詳細不明ながら古物・古美術商「古手屋」としてこの地に移り住んだとされる。

  • 二代目
    山口清八(-1728)やまぐちせいはち
  • 三代目
    山口惣平(-1803)やまぐちそうへい
  • 四代目
    山口利平(-1814)やまぐちりへい

    米、油、醤油、呉服、両替などを扱い、家伝によると「家運栄えし」とされ、江戸末期「古手屋」は百余町を抱え有馬藩史にも登場する大地主であった。

  • 五代目
    山口利七(1787?-1850) やまぐちりしち

    流域の良質な米と水を使い酒造りを本業とすることを決意した、酒造業創業者。父・利平の商いを継ぎ、博多と北野郷を往復して交易を行った。その時、肩に担いだ天秤棒は商いの原点として今も家宝として伝えられている。また、利七は大地主でもあり、藩に資金的な協力をしたことが認められ、一八三二年酒造業を免許され現在に至っている。

  • 六代目
    山口利助(1827?-1874)やまぐちりすけ

    酒造業に献身し、いつしか「庭のうぐいす」は有馬藩の御用銘柄になった。また自らの土地に小作人を多数移住させ無償で土地と馬を与えて四つの部落を造る(北野町史誌)などして地域振興にも貢献。明治四十四年、明治天皇より贈従五位を叙勲。幕末から明治維新にかけ、現在の山口酒造場の蔵のほとんどを建・増築した。

  • 七代目 山口一二
    七代目
    山口一二(1837-1912)やまぐちいちじ

    五代目・利七の次男で利助の弟。質素倹約で勤勉であったため、商いを大きく発展させた。決して贅沢を許さない厳しい人であったらしいが、その反面、奉仕の精神にあふれ、日露戦争では多くの私材を軍に寄付して日本のために尽し、西方寺(菩提寺)の本堂改築の建築委員長をするなど地域貢献に寄与した。現在の山口家本館(会社事務所)は江戸末期に一二が建築したもの。

  • 八代目 山口儀六
    八代目
    山口儀六(1875-1938)やまぐちぎろく

    酒造業は時代の好景気で順調であり、昭和五年には酒造業を法人化し現在の「合名会社 山口酒造場」としてスタートさせた。その後、儀六は銀行を設立し北野銀行の初代頭取に就任。また、福岡県酒造組合三井支部長を勤める傍ら、北野町町長としても手腕を発揮した。酒造業は当時二千石の醸造高で、品評会でも金牌銀牌の受賞常連となり盛大であったという。

  • 九代目 山口正人
    九代目
    山口正人(1904-1982)やまぐちまさと

    頑固一徹な堅物で、弓道や柔道に長け、北野町長も務めた。酒豪としても知られ、若かりし頃、巡業の際宿泊した横綱・双葉山と飲み比べをし、結局、陽が昇り勝負はつかなかったという。酒造業は四千石の醸造高で規模は増えたものの、昭和四十年代からの「日本酒不況」を迎え、大型機械や最新醸造技術を取り入れた仕込み形態に変革せざるを得なかった。

  • 十代目 山口尚則
    十代目
    山口尚則(1938-2004)やまぐちひさのり

    各社が規模の競争をする中、一九八〇年には大型設備を排除し「美味しい純米酒をぬる燗で」と、東京を中心とした市場開拓を進める。また、同業十六社で「福岡銘酒会」を設立し、会長として熟成酒の認知拡大に貢献。八三年には「研醸株式会社」を立ち上げ「にんじん焼酎めずらし」を発売。ニンジンの産地・北野町発展に大きく寄与する。現在の仕込み蔵、酒質の設計は尚則の時代に大枠を作り上げ、その想いは今も受継がれている。

  • 十一代目
    山口哲生(1969-)やまぐちてつお

    現当主。二〇〇三年に家宝の天秤棒の伝達儀式により十一代目を襲名。〇四年から「造るのはnipponのこころです」を指針に掲げ、日本酒製造業の枠を超え「nipponのこころ製造業」として日本のよいもの、日本人の素晴らしさを世に伝えたいとする。また、酒米「山田錦」を自社で栽培し、梅酒製造においてはリサイクル事業にも取組む。