筑後の土蔵 のご紹介④

原点回帰(1994-1997)

1994年10月
壊れた土蔵はギャラリーに生まれ変わったnipponの逸品を酒蔵から発信する。「筑後の土蔵」の原点を見つめ、あたらしくなった酒蔵からあたらしい発信を!蔵開きは蔵元と女将の新たな願いを込めて10月に開催することになった。また、台風のお陰で「土蔵ギャラリー」も誕生した。
 

漆の器類吉瀬コレクション秋のひやおろし(ひと夏すぎて美味しくなったお酒)をのんで頂き、蔵元もうれしそう。
日田の吉瀬コレクションからは、すばらしい浮世絵を100点ほど展示、江戸の芸術は現代の人を魅了した。また、沢山の感謝の気持ちから、山口酒造に伝わる漆の器、お殿様愛用のお弁当箱、古伊万里の器などを展示、女将の山口怜子はパッチワークの新作デザイン展を行った。
 
●浮世絵コレクション100点展示
●山口酒造調度品「漆器」展示
●藍工房(山口怜子主宰)新作パッチワーク展

筑後の土蔵 のご紹介③

10代目・山口尚則は大きな決断を二つした。
一つは酒蔵移転を断念したこと。あまりの被害の大きさに蔵の移転を決断し、甘木市甘水地区(現朝倉市甘完成した新しい蔵水)に土地を確保し酒蔵建設の一歩手前まできたが、どうしても北野町に愛着があり、また、蔵付き酵母や麹のこと、現在の水の状態を総合的に考えてみると、やはり、江戸時代より蔵を構えていた現在の場所が最適ではないかという結論になった。英断であったように思う。

まるまる2年間、蔵元と女将は文字通りどろんこになり、蔵を全て雑巾で拭きあげ改修工事が終わるころには二人そろって倒れる始末。しかし、みんなの願いが叶い、以前にも増して作業性がよく清潔な蔵が1994年に完成した。(移転予定先だった、朝倉市甘水地区は九州名水100選にかぞえられ、そこの水は実際甘く感じる。「甘水(あもうず)の名水」は10代目蔵元・生涯最後の事業として後に日の目を見ることになる。)   

コスモス二つ目は「筑後の土蔵」を秋のイベントにしたこと。もともと、流通過程で劣化する酒を憂い、出来たての酒の美味しさを新酒で味わってほしいという願いから新酒の時期に開催していたが、流通の意識も変り、当初の目的を達成したと判断した。もともと「燗で飲む純米酒」造りを目指す10代目は、新酒の時期よりもお酒がひと夏こし、秋口になり熟成して美味しくなる時期に来場してもらいたいという気持ちから、秋の開催に決めた。10月1日が日本酒の日であることもあり、以来10月1日から3週間程度「筑後の土蔵」展が行われている。

 

 

 

筑後の土蔵 のご紹介②

100年に一度の災いが起こった
超大型台風で屋根は飛び蔵は壊滅・・・
「お酒が仕込めない」杜氏は茫然自失
蔵元は、修復かそれとも酒蔵移転かを迫られた
廃業という選択肢も頭をよぎった     

 

転機(1992-93) 

1992年2月 第六回「筑後の土蔵」展

崩壊した蔵91年秋の台風17号・19号により筑後地方の酒蔵が大打撃を受け、当社も全部の蔵に被害が及び今までの「筑後の土蔵」展での開催は断念。しかし、どうしても新酒を飲みたいという声をいただき、辛うじて被害の少なかった本館(母屋)にて「新酒の会」という小規模なきき酒会のみを開催。少数の熱心なファンの方にかこまれてなんとか開催することができた。あたたかい心からの励ましをいただいた。

 

1993年2月 第七回筑後の土蔵

母屋にて新酒の会ビニールシートで急場を凌いだが、、、蔵はいまだに手つかず。蔵元・山口尚則は、酒造業を継続していくことを決め、ビニールシートで覆った仮設場で酒を仕込み、まずまずの出来栄えに現場の士気は自ずと高まった。

しかし、「次の100年計画」では、作業性や将来の環境汚染の心配、そしてなにより修復費があまりに高額なことを考え、結局は酒蔵を移転しようということになった。現実的な判断であったように思う。移転場所は約1年間九州中を歩き回り、北野町から30分程の場所にある甘木市秋月が水がきれいで気候風土も良いため、移転先には一番よかろうということになり用地を確保した。


93年春には仮設テントなどをつかい、なんとか第7回筑後の土蔵展を開催したが、だれもが最後の筑後の土蔵だとおもって涙した。

 

 

 

 

筑後の土蔵 のご紹介①

いまや恒例となった秋のイベント「筑後の土蔵」展についてご紹介していきます。

いいものは身近にある。お宝は眠っている。

筑後の土蔵(筑後地方の酒蔵)からnipponの逸品を発表していきたい。

日本酒もそんな一つ。

 

草創期(第一回~第四回)

1987年2月 第一回「筑後の土蔵」

1980年代せっかくのお酒は出荷されたあと冷蔵管理をしてもらえず、長い流通段
階で徐々に劣化していき、消費者の口にはいるときにはとんでもないお酒に、、、そ
んなことが日常化していた。「蔵でのむお酒の美味しさを知ってほしい」一念で、第
一回庭のうぐいす蔵開き「筑後の土蔵」展を開催した。

ほんの一部の知人に葉書で知らせた手造りのイベントは、たまたま友人の新聞記者に
よって、ほんの数行紹介された。しかし、当時珍しかった「蔵開き」は話題になりな
んと3日間で2万人が来場し、あまりの賑わいに母屋の床が抜けたほど。

蔵元の想い、蔵で飲む出来立ての新酒を初めて味わっていただくことが出来た。「美
味しい、美味しい、本当に美味しい」の連発に蔵人もにっこり。どれだけ励まされた
ことか。

●     新酒の会を開催、ダルマ会発足。

●     山口怜子のパッチワーク作品を母屋に展示

1988年2月 ~1991年2月 

今でこそ蔵開きは珍しくなくなったが、当時は「酒蔵開放」なるものは殆ど行われて
おらず「酒蔵で酒が飲める」イベントは2年目以降も話題を呼び、酒好きが大挙して
押し寄せる光景はまさに春のお祭りの様相。押すなの大盛況であった。JA北野が全
面的に協力してくれ、農産物は酒蔵を賑わせてくれた。

また女将の山口怜子の発案で「全国パッチワーク公募展」を本館(母屋)にて開催、
「古布パッチワークの発祥の家」として応募作品が土蔵に並び人気投票が行われた。

89年から91年まで、このように新酒の会は続けられ、「筑後の土蔵」展は春のイ
ベントとして地域に定着し、有馬藩ゆかりの調度品や酒造りの道具に熱心に見入る人
も多かった。

●     庭のうぐいす 天満市、新酒の会開催

●     第1回~第4回全国パッチワーク公募展を開催
ダルマ会会長の上瀧さん

筑後の土蔵 のご紹介①

いいものは身近にある。
お宝は眠っているもの。
筑後地方の酒蔵(筑後の土蔵)からnipponの逸品を発表していきたい。
日本酒もそんなもののひとつ。
     

 

いまや、秋の恒例のイベントとなった「筑後の土蔵」展について順次ご紹介していきます。 

 

草創期(1987-91) 
1987年2月 第一回「筑後の土蔵」展      

約2万人が来場1980年代せっかくのお酒は出荷されたあと冷蔵管理をしてもらえず、長い流通段階で徐々に劣化していき、消費者の口にはいるときにはとんでもないお酒に、、、そんなことが日常化していた。「蔵でのむお酒の美味しさを知ってほしい」という山口尚則の一念で、第一回庭のうぐいす蔵開き「筑後の土蔵」展が開催された。

母屋内の酒売場ほんの一部の知人に葉書で知らせた手造りのイベントは、たまたま友人の新聞記者によって、ほんの数行紙面で紹介された。しかし、当時珍しかった「蔵開き」は話題になりなんと1日で5千人が来場し、あまりの賑わいに母屋の床が抜けたほどであった。     

 

技術顧問の行本先生も楽しそう蔵元の想い、蔵で飲む出来立ての新酒の味を初めて一般の方に味わっていただくことが出来た。「美味しい、美味しい、本当に美味しい!」の連発に蔵人もにっこり。どれだけ励まされたことか。

●新酒の会を開催、ダルマ会発足。
山口怜子のパッチワーク作品を母屋に展示


1988年2月 ~1991年2月
 

多くのお客さんで賑わう今でこそ蔵開きは珍しくなくなったが、当時は「酒蔵開放」なるものは殆ど行われておらず「酒蔵で酒が飲める」イベントは2年目以降も話題を呼び、酒好きが大挙して押し寄せる光景はまさに春のお祭りの様相。押すな押すなの大盛況であった。JA北野が全面的に協力してくれ、農産物は酒蔵を賑わせてくれた。    

 

有馬藩の調度品を展示また女将の山口怜子の発案で「全国パッチワーク公募展」を本館(母屋)にて開催、「古布パッチワークの発祥の家」として応募作品が土蔵に並び人気投票が行われた。89年から91年まで、このように新酒の会は続けられ、「筑後の土蔵」展は春のイベントとして地域に定着し、有馬藩ゆかりの調度品や酒造りの道具に熱心に見入る人も多かった。


●庭のうぐいす 天満市、新酒の会開催
第1回~第4回全国パッチワーク公募展を開催 

第21回「筑後の土蔵」展

シンボルとなる土蔵

食の提案「蔵の膳」弁当

「筑後の土蔵」という催しがあります。前蔵元夫妻(10代目山口尚則・怜子)の深く大きな思いが沢山つまった蔵開きです。内容や歴史については順次お伝えしていきますが、今年21回目の「筑後の土蔵」最初の会議「キックオフミーティング」が行われました。酒造りがおわり一息ついた今の時期の風物詩、、また今年も始まりました。

おくんち蹲(つくばい)

前夜祭

 

 

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