第十一代 蔵元山口哲生
長い時間をかけ、先人たちによって
育まれてきた日本酒。
その価値に、世界中の人々が
気付き始めています。
私は、先人たちが敷いたレールを
走らせてもらっている醸造家です。
しかし日本酒が国境を越え、世界の人々の
ライフスタイルを形づくるという新しい
役割を先人たちは与えてくれました。
国や先人たちに感謝しつつ、長い時間をかけ
育まれてきた日本人の特別な精神性
「nipponのこころ」をたすきとして
日本酒の新しい価値を創造し、後世の人々が
より豊かな食生活をたのしめるよう
醸造家としてできることを
日々実践していきたいと思っています。
山口酒造場の歴史
1688年〜 (元禄元年~) |
初代 ・ 與右衛門 二代目・清八 三代目・惣平 |
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1777年 (安永6年) |
四代目・利平 屋号を「古手屋(ふるてや)」とし、商家として栄える |
1832年 (天保3年) |
有馬藩より酒造業の許可を得る(山口酒造場創業) 五代目・山口利七、六代目・山口利助の頃、有馬藩御用達に 現在の仕込蔵を建築 |
1911年 (明治44年) |
六代目・山口利助 天皇陛下より贈従五位を叙勲 |
1924年 (大正13年) |
八代目・山口儀六 酒造業を拡大、全国品評会出品多数 |
1945年 (昭和20年代) |
九代目・山口正人 原料難、製造石数2000石 |
1955年 (昭和30年代) |
大型設備を導入、製造石数3000石 |
1975年 (昭和50年) |
大規模設備を排除し、純米酒を中心とした特定名称酒を製造開始 |
1978年 (昭和53年) |
福岡市天神にアンテナショップ「ON GREEN」出店 |
1979年 (昭和54年) |
九代目・正人急逝 十代目・山口尚則が社長に |
1983年 (昭和58年) |
焼酎専業の「研醸株式会社」設立(井上合名会社と共同) |
1986年 (昭和61年) |
朝倉農業高校の熊谷先生と無農薬有機栽培米の酒米に取り組む |
1987年 (昭和62年) |
第1回「筑後の土蔵」 新酒の会 |
1989年 (平成元年) |
同業16社で「福岡銘酒会」立ち上げ、山口尚則が初代会長に |
1991年 (平成3年) |
大型台風17号、19号により仕込蔵・貯蔵蔵の大きな被害 酒蔵の移転を検討し、甘木市甘木(現朝倉市)に用地を取得 |
1997年 (平成9年) |
米国向け輸出を開始 |
2003年 (平成15年) |
しょうちゅう乙類製造免許取得 吟醸酒粕を原料とした粕取焼酎を蒸留 |
2004年 (平成16年) |
蔵は移転せず、移転候補地にて「甘水の名水」を紹介(九州名水百選) 十代目・尚則急逝 十一代目・山口哲生が社長に |
2005年 (平成17年) |
貯蔵蔵完成 リキュール製造免許取得 |
2006年 (平成18年) |
「筑後の土蔵」20周年記念 母屋内に販売所「uguisubar」を開設 創立175周年 粕取焼酎を原料とした梅酒の製造開始 |
2007年 (平成19年) |
その他の醸造酒製造免許の条件緩和 どぶろくの製造開始 |
2008年 (平成20年) |
オーストラリア向け輸出開始 |
2010年 (平成22年) |
韓国、香港向け輸出開始 |
2011年 (平成23年) |
天満天神梅酒大会2011 「特撰梅酒うぐいすとまり 鶯とろ」日本一受賞 みりん製造免許取得 みりん製造開始 台湾向け輸出開始 |
2012年 (平成24年) |
第1回福岡県酒類鑑評会 純米吟醸酒 純米酒 金賞受賞 第26回 筑後の土蔵 山口怜子パッチワーク展 最後の秋開催 |
2013年 (平成25年) |
第27回 筑後の土蔵 春開催 アメリカ向け輸出撤退 カナダ向け輸出開始 仕込蔵補修工事、木造建築保存へ 第二回福岡県酒類鑑評会 金賞受賞 |
2014年 (平成26年) |
第28回 筑後の土蔵 春開催(3/15-31) 菊川女史室礼展 第三回福岡県酒類鑑評会 金賞受賞 研醸株式会社(焼酎専業)が子会社から一般取引先に変更 |
2015年 (平成27年) |
第29回 筑後の土蔵 「宝節句」 端午の節句 シンガポール向け輸出開始 タイ向け輸出開始 香港向け・オーストラリア向け撤退 全国新酒鑑評会 金賞受賞 第四回福岡県酒類鑑評会 金賞受賞 |
2016年 (平成28年) |
全国新酒鑑評会 金賞 第五回福岡県酒類鑑評会 金賞受賞 企業理念策定 |
2017年 (平成29年) |
全国新酒鑑評会 金賞 第六回福岡県酒類鑑評会 金賞受賞 フランス向け、マレーシア向け輸出開始 |
2018年 (平成30年) |
全国新酒鑑評会 金賞 第七回福岡県酒類鑑評会 金賞受賞 アメリカ向け輸出再開 ベトナム向け輸出開始 非アルコール部門を分社「株式会社古手屋」 新上槽設備導入 |
2019年 (平成31年・令和元年) |
全国新酒鑑評会 金賞 第八回福岡県酒類鑑評会 金賞受賞 ブラジル向け輸出開始 製造場内小売部門を分社「株式会社1020」 新醗酵室新設 |
2020年 (令和2年) |
全国新酒鑑評会 入賞(決審行われず) 香港向け輸出再開 ラベル貼付ライン増設 |
2021年 (令和3年) |
第九回福岡県酒類鑑評会 金賞受賞 |
2022年 (令和4年) |
庭のうぐいす酒蔵開き2022 3年ぶり開催 組織変更 合名会社山口酒造場から株式会社山口酒造場へ(10月1日) |
山口酒造場の歴代当主
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- 初代
- 山口與右衛門(-1733)やまぐちよえもん
江戸元禄年間に出生し詳細不明ながら古物・古美術商「古手屋」としてこの地に移り住んだとされる。
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- 二代目
- 山口清八(-1728)やまぐちせいはち
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- 三代目
- 山口惣平(-1803)やまぐちそうへい
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- 四代目
- 山口利平(-1814)やまぐちりへい
米、油、醤油、呉服、両替などを扱い、家伝によると「家運栄えし」とされ、江戸末期「古手屋」は百余町を抱え有馬藩史にも登場する大地主であった。
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- 五代目
- 山口利七(1787?-1850) やまぐちりしち
流域の良質な米と水を使い酒造りを本業とすることを決意した、酒造業創業者。父・利平の商いを継ぎ、博多と北野郷を往復して交易を行った。その時、肩に担いだ天秤棒は商いの原点として今も家宝として伝えられている。また、利七は大地主となり、藩に資金的な協力をしたことが認められ、一八三二年酒造業を免許され現在に至っている。
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- 六代目
- 山口利助(1827?-1874)やまぐちりすけ
酒造業に献身し、いつしか「庭のうぐいす」は有馬藩の御用銘柄になった。また自らの土地に小作人を多数移住させ無償で土地と馬を与えて四つの部落を造る(北野町史誌)などして地域振興にも貢献。明治四十四年、明治天皇より贈従五位を叙勲。幕末から明治維新にかけ、現在の山口酒造場の蔵のほとんどを建・増築した。
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- 七代目
- 山口一二(1837-1912)やまぐちいちじ
五代目・利七の次男で利助の弟。質素倹約で勤勉であり、商いを大きく発展させた。贅沢を許さない厳しい人であったらしいが、その反面、奉仕の精神にあふれ、日露戦争では多くの私材を軍に寄付して日本のために尽し、西方寺(菩提寺)の本堂改築の建築委員長をするなど地域貢献に寄与した。現在の山口家本館(会社事務所)は江戸末期に一二が建築したもの。
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- 八代目
- 山口儀六(1875-1938)やまぐちぎろく
酒造業は時代の好景気で順調であり、昭和五年には酒造業を法人化し現在の「合名会社 山口酒造場」としてスタートさせた。その後、銀行を設立し北野銀行の初代頭取に就任。また、福岡県酒造組合三井支部長を勤める傍ら、北野町町長としても手腕を発揮した。酒造業は当時二千石の醸造高で、品評会でも金牌銀牌の受賞常連となり盛大であったという。
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- 九代目
- 山口正人(1904-1982)やまぐちまさと
頑固一徹な堅物で、弓道や柔道に長け、北野町長も務めた。酒豪としても知られ、若かりし頃、巡業の際宿泊した横綱・双葉山と飲み比べをし、結局、陽が昇り勝負はつかなかったという。酒造業は四千石の醸造高で規模は増えたものの、昭和四十年代からの「日本酒不況」を迎え、大型機械や最新醸造技術を取り入れた仕込み形態に変革せざるを得なかった。
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- 十代目
- 山口尚則(1938-2004)やまぐちひさのり
各社が規模の競争をする中、一九八〇年には大型設備を排除し「美味しい純米酒をぬる燗で」と、東京を中心とした市場開拓を進める。また、同業十六社で「福岡銘酒会」を設立し、会長として熟成酒の認知拡大に貢献。八三年には「研醸株式会社」を立ち上げ「にんじん焼酎めずらし」を発売。ニンジンの産地・北野町発展に大きく寄与する。現在の仕込み蔵、酒質の設計は尚則の時代に大枠を作り上げ、その想いは今も受継がれている。
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- 十一代目
- 山口哲生(1969-)やまぐちてつお
現当主。二〇〇三年に家宝の天秤棒の伝達儀式により十一代目を襲名。「造るのはnipponのこころです」を指針に掲げ、日本酒製造業の枠を超え「nipponのこころ製造業」として日本のよいもの、日本人の素晴らしさを世に伝えたいとする。二〇一六年、経営理念策定、
尚怜蔵 竣工。酒質の向上や輸出などに取組む。